雑記帳
 
「桃の子供」のこと
ジャコメッティのアトリエ
凸凹ヘルスエンジェルス
渡ちゃんのこと
「桃の子供」のこと

1992年の春に南椌椌というおかしな名前で絵を描きはじめた。

その2年前から始めていた吉祥寺のレストラン「諸国空想料理店KuuKuu」の名前を背負って、店も絵もいっしょくたにがんばろう!という決意表明のような命名だった。椌という字は漢和辞典でたまたま見つけたものだ。植物の名前ではなく木のなかが空洞になっている打楽器のことらしい。古代聖人が好んだ六箇の楽器のうちのひとつだという。南椌椌に変身してしばらくの後、「寺の小僧が椌(kong)という楽器を椌椌(kongkong)とたたいて経を読む」というような例文が中国の古典『礼記』にあることをと教えてくれたのは東洋医学の研究家の岩井佑泉先生だった。してみれば木魚のようなものも椌なのか?『礼記』に椌椌と椌の字がふたつ並んだ記述があるという岩井先生の教示は僕には嬉しいものだった。由来はともかくこの字との出会いがその後の僕の創作活動をゆるやかに支えてくれたのは間違いない。

それから数年間、がむしゃらに描いていたのが「桃の子供」というテーマのガラス絵だった。いたずら書きのように幾人ものこどもの額に桃を描いたのがきっかけなのだが、この墨で描いたらくがきを見て、桃という果物が古代の中国から東アジアにかけて神仙の木、生命の象徴とされ、畏敬をもって遇されてきたということを教えてくれたのも岩井先生だった。春の陽気をもっとも早く察知して芽吹き花咲かせる樹、それは神と人とのあいだに立って生命そのものような果実を結ぶ樹とさえ考えられていたという。捜してみれば、中国や朝鮮の古い文物に桃の図像をあしらったものがいかに多いか驚かされるだろう。そうだそれにあやかろう!次第に僕の創作も桃を抜きには考えられなくなっていった。

ガラス絵ばかりかテラコッタの作品にまで桃は手を変え品を変え、いや品は変わらず桃ひと筋なのですが、子供があたまに桃をのせている、桃をかかえている、ひたいに桃が浮き出ている、天から桃が降って来る、桃どろぼうがいる、猫や鳥が桃をはこぶ・・・・・。桃が描かれていなくとも僕の作品の多くは桃のイメージを造形したもののようになっていった。それほど桃という果実は僕のものつくりの中心に居座ってしまったのだ。

そして1994年のクリスマスには架空社という出版社からガラス絵による『桃の子供』という画文集まで出していただくことになった。自分にとっては初めてのカラー版の作品集だった。そんな意味でも愛着のある一冊だが、この本の末尾に桃についてこのように書いた。

桃というくだものは やわらかい/桃というくだものは まるい/桃というくだものはももいろだ/桃というくだものは こわれやすい/桃というくだものは みずみずしい/桃というくだものは たねがかたい/桃というくだものは いのちににている

作者による決して上手ではない作品解説のようであり、なんだ当たりまえのことばかりじゃないかと思える内容だが、当時も今も「なぜ桃なの?」と訊かれることがあまりに多いので、ここに注釈の弁を記す次第です。悪しからず。

テラコッタの場合はとくに粘土と水のバランスがほどよく手のひらで融合する時、なぜか桃というくだものの瑞々しさを感じてしまうのだ。テラコッタ像制作のラストに、一本の竹串で「すべての顔にほほ笑みを」と念じながら、最愛の表情を刻む時には、先に引用した桃のイメージそのままに竹串に思いをこめているのだと言えると思う。

これからも、僕は肩の力をぬいてテラコッタによる「桃の子供」をひねり出すことをやめないだろう。
雑記帳TOPへ戻る
 
ジャコメッティのアトリエ

 1976年、25歳のときに初めてヨーロッパを一人旅した。10ヶ月あまりの気ままな旅だった、といえば聞こえはいいかも知れないが、当時ヨーロッパの数カ所に暮らしていた友人たちを頼ってのお坊ちゃま旅行ではあったのだ。

 2月の寒い明け方、パリのオルリー空港に降り立ったベルギーのサベナ航空機はその後の経験からいっても洗練されたサービスが気持ちのよいものだった。

これからの旅の心地よさを予感させる期待の感覚に胸を躍らせながら、まだほの暗い空港をあとにして僕はタクシーを飛ばし、パリのムッシュ・ル・プランス通りのアパートに住む山口博史の部屋に転がり込んだのだった。

 山口君のアパートにタクシーが着く頃には、モスクワ経由の長旅と時差ぼけで深い疲労感に襲われていた僕はすぐにベッドに潜り込んで眠りたかった。だが、そんな僕の思いは無惨にうちくだかれてしまった。山口君の部屋にはパリの日本人たちが6、7人集まっており、おそらく前夜から続けていたであろうトランプ遊びに夢中になっていたのだ。そして彼らは、はるばる日本から飛んできた新しい友人になるはずの僕の到着を型どおりの挨拶で迎えたあとは、また賑やかにトランプに興じるのだった。

「ショーキチ、疲れただろうからベッドで眠ってていいよ」と山口君は言ってはくれたものの、みんなの声のトーンはまったく低くなる気配はなかった。そのときの僕の気持ちは、「なんじゃこりゃあ?」というものだっただろう。なんじゃこりゃあ、でも眠ることしかないのであって、うつらうつらとするうちにパリの最初の夜は白々と明けていたのであった。

 気がつけば、ベッドの下に山口君ひとりが軽い寝息をたてて眠っており、あとの日本人はどこかに消えていたのだった。

 山口博史は当時パリの国立音楽院に留学して作曲の勉強をしていた高校時代からの友人だった。僕とはまったく違って理数系にめっぽう強く、女性にはこの上なく優しい奴である。彼は通りを走る車の音まで、すべての音が楽譜になって見えると言っていたが、すべての楽譜が幾何学的な抽象画に見える僕にはまったく信じられないことだった。僕が彼の部屋に転がり込んだ時にトランプに興じていた日本人はすでに名前の知られたピアニストや作曲家の卵、放浪詩人、スタイリスト、フランス菓子職人の卵など、花の都パリで開放感と未来への希望に満ちて暮らしていた人々だった。

 僕にはパリの最初の日にはこうしようと決めていたことがあった。

 それは彫刻家のジャコメッティのアトリエ跡を訪ねることだった。ジャコメッティは当時すでに亡くなっており、彼のアトリエが僕の知っているパリの住所にそのまま残っているのかどうか、それは判らなかったが、とにかくイポリット・マンドロン街46番地のジャコメッティのアトリエはどうしても訪ねなくてはならなかったのだ。

 その理由はとても単純なことだった。学生時代に夢中になって読み、まさに震撼するほどの感動を受けていた書物、矢内原伊作著『ジャコメッティとともに』の舞台になったアトリエを訪ねたいというものだった。

 『ジャコメッティとともに』はパリ留学中の哲学者・矢内原伊作が帰国予定の直前、たまたまジャコメッティのモデルになったがために結局日本へ帰ることもままならず、ただただ不動の姿勢でジャコメッティの前に立ち続けた数ヶ月の経験を中心に渾身の筆致で書き尽くしたジャコメッティについての究極の作家論だ。僕が学生だった30数年前には、この本に心底やられてしまった若者が巷には溢れていたかも知れない。そして僕もそんな若者のひとりだったというわけだ。

 たとえアトリエがなくなっていてもアトリエがあった場所に立ってその空気を吸ってみたいという、今から思えば若さゆえの過剰な思いこみそのものが僕を突き動かしていたのは間違いない。そもそも、ヨーロッパに行こうと思った動機の幾分かはジャコメッティのアトリエを訪ねることだったのだ。

 『ジャコメッティとともに』にはアトリエの外観の写真が添えられてあった。古い煉瓦に漆喰かモルタルを塗り重ねた壁が崩れかかっている。パリの下町にはどこにでもありそうな粗末な建物だった。写真のキャプションにはイポリット・マンドロン街46番地のアトリエとあった。

 初めてのパリの町をどう探したのか記憶が定かではないのだが、パリの地図を頼りに地下鉄に乗ったのか、バスを乗り継いだのか、薄曇りの午後の4時ころには僕はジャコメッティのアトリエのあった46番地の建物の前に立っていたのだった。その建物の外観は写真で見た通りのものだった。住所表示のプレートもそのまま、外壁の感じもそのままだった。「ああ、あった!そのままだ!」

僕はともかく無性に感激してしまった。もちろんジャコメッティはもういない。奥さんのアネットももうそこには住んではいなかったのだろう。そこには知らない名前の表札がかかっていたのだった。窓越しにのぞくと画家のアトリエのようだった。イーゼルとキャンバスと雑然とした部屋のたたずまいが目に入った。ぼくはそのアトリエの今の住人には何の興味もわかなかった。

「これでよし。」僕ははずむような足取りで山口君のアパートへ帰って行っただろう。

 その日から10ヶ月あまりのあいだ、僕はヨーロッパの様々な街で本当に多くの出会いと素晴らしい経験をしたのだった。それは生涯でたった一度の夢想的な日々だったと、間違いなく言うことが出来る。

 これほど僕にとっては大事だった書物『ジャコメッティとともに』は、その後よせばいいのに誰かに貸したまま行方知れずになってしまっていた。ずいぶん経ってから版元の筑摩書房からはハードカバーの改訂版も出版されたのだが、初版のソフトカバーの本を一心に読みふけった学生時代の記憶と手に残る本の重さと質感は改訂版からは感じることができなかった。そして、この十数年、失ってしまった初版本を時おり思い出しては「あいつじゃないか?」と犯人の目星をたてては追求出来ずに悶々と(?)していたのだが、実は最近神田の田村書店という古書店で初版当時のものを見つけて買うことが出来たのだった。Michikoという署名入りの本だったが、保存状態はとてもよく僕は大いに満足した。それが、このHPの最初にジャコメッティのアトリエを訪ねたことを書くきっかけになったというわけなのだ。

 後日談をもうひとつだけ書いておきたい。

 『ジャコメッティとともに』の著者である哲学者の矢内原伊作氏と僕はある友人を介して不思議なことに親しい交友関係をもつようになった。矢内原さんは散歩の道すがらや立ち寄った喫茶店などで「ショーキチ君、ジャコメッティはね、辻まことはね・・・・」と気さくに飄々とジャコメッティややはり僕の大好きな辻まことの話なんかをしてくれたのだった。そして、僕がやっていた(今でもやっているけれど)まめ蔵というカレー屋で「矢内原伊作の時間」という講演会まで開いてくれたのだ。なんだか勿体ないくらいの出来事だったのである。

 その矢内原さんもとっくに亡くなられており、ここに書かせてもらったすべてのことは遠い時間の彼方のこと、僕のなかの大事な記憶の風景になっているのです。

雑記帳TOPへ戻る
 
凸凹ヘルスエンジェルス

 前回は初回だったからか、だらだらと書きすぎてしまった。ジャコメッティの作品にならってもっと削り込むべきでありました。今回は短くいきましょう。

 これも最初のヨーロッパ旅行での体験だが、旅行中いちばん印象に残った人物について書いてみたい。もう絶対に会うことが出来ないだろうひとりのスウェーデン人の男のことだ。

 1976年7月はじめ頃のことだから日本を離れてもう5ヶ月くらいの時間が過ぎていた。そのころはパリを離れて一ヶ月の英国オックスフォードでの生活やスペインやイタリアでの夢のような!日々を経験していたので外国での一人旅にもずいぶん慣れていたはずだ。僕は7月7日の七夕の夜を北極圏の街で過ごそうとメルヘン的に!思い立ち、北ドイツからデンマーク経由でスウェーデンにはいり、そのままノルウェーの北極圏の街ナルヴィクへ行こうという途次のことだった。

 スウェーデンのストックホルムは北国の無駄のない造形が印象的な美しい街だ。スペインやイタリアなどの飾り立てられたカソリックの国から来ると、真っ青な空に向かってそそりたつプロテスタント教会の直線的なかたちがやけに新鮮だった。僕はある教会の庭のベンチで本を読んでいた。するとそこにちょっとだけヒッピー風な若いカップルが近づいてきて「一緒にビールでも飲まないか?」と同じベンチに座り込んだのだ。そのころ、北欧では別にアルコールは禁止されてはいなかったが、外で飲むのは御法度のようだった。僕たちは紙袋でビール瓶を隠しながら、川海老のから揚げのようなものと一緒にビールを流し込んでいた。やがてカップルは「おまえはきょうはどこに泊まるんだ?もし決めてなかったら俺たちのところへ来ないか?」と言う。僕はきょうのホテルはまだ決めてないし、北欧の物価の高さにはついて行けない気分だったので、渡りに船とはこのことだい!と英語で答え(嘘です)、彼らの後をついて行くことになったのだ。

 郊外電車に乗って小一時間、けっこう遠くまで行くんだなと思いながらも、もうしょうがない。小さな駅で降りるとどのくらい歩いただろう、森の中の団地のような一角に着いたのだった。3階建ての3階だったと思う。ヒッピー風のふたりはさあ入れというようにドアを開けた。

 その部屋はヒッピー風のふたりの部屋ではないようだった、そこには別のカップルが仲良さそうに待っていたのだ。挨拶もそこそこに質素な宴会は始まった。ビールとワインとチーズだけのささやかな宴会だ。流れている音楽はもちろんビートルズのホワイトアルバムのたしか1枚目の方だった。そのころ僕が大好きだった「マーサ・マイ・ディア」がかかっていたのでよく覚えている。

部屋の住人らしいカップルはまだ20代前半の美男美女で、ふたりとも細面の優美な顔立ちだった。しばらくそんな風に暖かい雰囲気でくつろいでいたのだが、そのうち一緒に俺たちのところへ来ないかと言っていたはじめの二人のカップルはどこかへ消えてしまい、僕は新しい美男美女のカップルの中にとり残されてしまったのだ。ま、しょうがない、これが旅というものさ。僕は流暢なブロークンイングリッシュで日本から来たことやこれまでの旅のことなどを話したり、日本から持ってきた紙風船でメルヘン的に!遊んでいたりした。

 そのとき、突然、ドアを蹴破るようなけたたましい音とともに恐ろしい形相のヘルスエンジェルスのような荒くれ男がふたり飛び込んできたのだった。2メートルはあろうかと思うような長髪振り乱しの大男とチビだが完全に切れかかったような挙動不審のチンピラ男である。この状況では決してあってはならない凸凹コンビの登場だ。僕はまた「なんじゃこりゃあ!?」と思ったかどうか、とにかくあっけにとられ、これから何が起こるのか不安の縁に立って黙って彼らを見るしかないのだった。

 2メートル大の大男とチビの荒くれ男はまずは日本のメルヘン的紙風船を無慈悲にも足でペシャンコに踏みつけると、かかっていたビートルズのホワイトルバムのたしか2枚目の方を鷲掴みにするや、これがUFOだとばかりに窓の外に激しく放り投るのだった。世界中でUFOになったホワイトアルバムはこの1枚だけだろうと僕は冷静に分析したかどうかはっきりしないが、ああ、僕にできることはあきらめることしかなかった。七月の星祭りの夕べを過ごすはずの北欧のストックホルム郊外の瀟洒なアパートで、僕はこの凸凹のヘルスエンジェルスによって地獄へ突き落とされるのだ。なんと哀れな25歳なんだろう。

 それでも、凸凹ヘルスエンジェルスのふたりも少しは落ち着きを取り戻したのか冷蔵庫から勝手にビールを取り出しては一気に飲み干し、チーズにむしゃぶりつくのだった。だが、そのうちよくわからない事態が進行し始めた。まず、そのアパートの住人であるはずの美男のやさ男が音もなくその部屋から退散し、やがて永遠に切れたまま荒れ狂っていると思われたチビのチンピラもなぜか部屋から出ていって帰らぬ人となってしまったのだ。

 その部屋に残ったのはやさしい顔立ちの美女と2メートル大の長髪ヘルスエンジェルスとそして日本から来た当時詩人の卵!であったこの僕の3人ということになった。

 結論からいうと実はこの部屋の住人は2メートル大のヘルスエンジェルスと細面のやさしい美女だったのだ。彼らこそがこの部屋の住人、つまり日々愛を語り合い睦み合うべきカップルだったのだ。「なんじゃこりゃあ?!」当時頭のよかった僕はことの次第を読み取るのにそれほどの時間を要しなかったのだが、さてこれから事態はどういう展開を見せるのか?

 いや、これからは何というか実に不思議な具合になっていったのであって、僕たち3人はなぜか静かに語り合い美女が作ってくれたおいしいスープとワインで夜が更けるまでいろいろなことを語り合ったのだ。要するにさっきまで恋人同士だとばかり思っていた美男美女のカップルはカップルではなく、やさ男の美男も2メートル大の大男もキレまくりのチンピラもほかの登場人物もみな友達なのだが、ちょっとした恋愛関係のほころびかさやあてか、まあ、大男とチンピラの虫のいどころがきわめて悪い状態のところにたまたま僕が居合わせてしまったということなのだろう。それにしてもアングロサクソンだかベーリング海のヴァイキングだか知らないが気性が荒すぎますな。それにUFOになったビートルズのホワイトアルバムはいったいどうなってしまったのか。

 この2メートル大の大男、実はとても心根のやさしい男でさっきまでの傍若無人ぶりはすっかり影を潜め、低く慰めに満ちた声で「おまえの名前ショーキチはスウェーデンではシェイマスだとなぜか言い張り、さっきのことは忘れてくれと手を握るのだった。いや、忘れるわけにはいかないから30年も経った今日のこの日にこんなところに書いているのですと僕はキミに言いたいよ、まったく。

 2メートル大の大男が作ってくれたベッドで深い眠りに落ちた僕は今日の日のことを夢の中で何度も反芻していたような気がするのだが、翌朝目が覚めて窓の外を見ると降り出した小雨のなかをこの部屋の主である大男が傘もささず、しかも裸足で団地内のマーケットに買い物に行く姿が見えた。そして、牛乳や卵、パンなどの入った紙袋を抱えて帰って来た男はその汚れた裸足のまま、暖かい珈琲とトースト、それに器用にオムレツまで作ってくれたのだった。3人で静かに囲んだその朝食は生涯で最も印象にのこる朝ごはんだったといえるかも知れない。不思議な人類に会ったなあ、と僕は心底思ったものだった。

 僕のことをシェイマスと呼んだこの大男の名前を僕は聞きそびれてしまったし、もちろん郊外電車の駅の名前も覚えていない。ただ、この奇妙な一日のことだけはやけに明瞭に覚えているのである。あのふたりのヘルスエンジェルスももう50代半ばの中年男になっているだろう。今頃どこで何をしているのかなあ、死んでいなければこの地球の上でわりと平凡に暮らしているのではないだろうか。そんな気がする2005年秋のひとときであった。

(まただらだらと書いてしまった。未熟なり。)

雑記帳TOPへ戻る
 
 
渡ちゃんのこと

 高田渡こと渡ちゃんが死んでしまって、もう半年の月日が過ぎてしまった。月並みな言い方だけど本当に時間の経つのは早い。渡ちゃんが釧路で死んだという知らせをもらい、渡ちゃんの部屋で渡ちゃんの棺が着くのを親しかった友人たちとともに何を話すでもなくじっと待っていた4月16日のこと、吉祥寺教会で行われた葬儀ミサのこと、4月28日に小金井公会堂で行われた「渡ちゃんを送る会」のこと、すべてがついこの前のことのようであり、またもうずっと昔のことのようでもある。

 実際、渡ちゃんはこの世に存在していたのだろうか?あの名曲「ブラザー軒」の中に出てくる死んだおやじのように、はじめから死んでいるのに平気で自転車に乗ってたり、やたら飲んでクダまいて人のこと怒鳴りつけたり、半端じゃない笑顔で誰をも幸せな気分にさせたりしてたのではないか。なによりもあの誰にもまねの出来ない歌そのものだってそうだ。渡ちゃんの声はこの世のものじゃない、普通に生きている奴があんな歌を歌えるわけがない。本当に死んでしまったあと繰り返し聴いている渡ちゃんのCDがそのことを教えてくれるのだ。

 でもね、あたりまえだけど渡ちゃんは生きていたんだよね。

 ことし2005年3月30日に僕は札幌で渡ちゃんと会っていた。4月3日の釧路でのライブのあと渡ちゃんは倒れてしまったので、その4日前のことになる。もう春といってもよい季節だったが、その日の札幌は時折思い出したように吹雪いており路面にはまだうず高く雪が積み上げられていた。

 そのころ僕ははじめての札幌での個展を開いており、たまたま渡ちゃんの北海道ツアーの初日だったその日、渡ちゃんは個展会場の「みんたる」という北大近くの小さな店に来てくれたのだ。

 同じ吉祥寺を根城にしているのにそんなに頻繁に渡ちゃんと会えるわけではなかった。とくにKuuKuuがなくなってしまってからは偶然「いせや」で飲んでいる渡ちゃんに出会って立ち話をする程度になってしまっていたので、この日の札幌での再会はとても嬉しいものだった。

 「みんたる」に僕とは知り合ったばかりの札幌在住の金井さんに連れられて入ってきた渡ちゃんを見たとき、ああ来てくれたんだという喜びと同時に「渡ちゃん、大丈夫かな?」という気持ちがよぎったことをよく覚えている。久しぶりに会った渡ちゃんは驚くほど疲れているように見えたのだ。すぐに僕の横に座った渡ちゃんはなんだかとても小さくなっていて、いつものように焼酎のお湯割りを頼んだのに小さなグラス一杯のお湯割りを1時間くらいかけても全部は飲むことをしなかった。会話もこころなしかとぎれがちで、これから始まる北海道ツアーのことを丁寧に話してくれる話し方はいつもどおり上品でまっすぐな感じだったけど、別れ際に「渡ちゃん、がんばってね!」と声をかけた僕に「がんばってるよ〜!」と答えてくれたその言葉は僕には「がんばってるよ〜、でもいつまでがんばれって言うんだい?」って確かに聞こえたような気がしたのだった。

 金井さんの運転する赤いカローラ(たぶん)が渡ちゃんを乗せて走り出したとき、また雪がはげしく舞い始め、その中を渡ちゃんは自分で車の窓をあけていつまでも手をふってくれていたのだった。僕が渡ちゃんと会ったのはそれが最後になってしまった。

 渡ちゃんが死んで、渡ちゃんを本当に愛していた多くの友人たちに混じって追悼の行事に参加させてもらったのだが、僕にはどうしても渡ちゃんが死んだとは思えなかった。渡ちゃんの部屋で釧路から帰ってきた渡ちゃんを迎えた時も、葬儀を終えて骨になった渡ちゃんを見ても、ここにいるのが渡ちゃんだとはとても思えなかったのだ。そのことに理屈をつけて考えたことはないのだが、

親しい人が死ぬということをたくさん経験してきた僕にはそれが渡ちゃんだからというのではなく、すべての死がどこか虚構の世界に属することなのだという風に思いたいという力が自然に働いてしまうのかも知れない。現実を見ることをいつも避けてきた僕の弱さゆえのことだとは判っているのだが、渡ちゃんに関して言えば、またそれだけではないような気がするのも確かなのだ。

 なによりも自分の胸の中にいる渡ちゃんの存在の強さ、彼の死後毎日のように聴いている渡ちゃんの歌の大きさ、その重さは確かに生きているし、まぎれもなく温もりさえ感じられるのだ。

 はじめの方に書いた「ブラザー軒」のなかの死んだおやじのように始めから死んでいたのかも知れない渡ちゃんは逆に二度と死んだりしないということなのかも知れない。

 死んでしまった渡ちゃんとのことばかり書いていたのでは寂しすぎるので、いくつもある面白いエピソードのなかから僕のやっている吉祥寺のカレー屋「まめ蔵」にまつわることを書いてみたい。

 1978年開店後間もない頃に渡ちゃんは「まめ蔵」にやって来た。それまでにライブハウスやどこかで何度か会っていたのだが、まだそんなに親しくはなっていなかったと思う。カレーが売り物のの喫茶店としてオープンしたての店に渡ちゃんは自分で作ったお手製のカレーをパックに詰めてやって来た。「これ食べて見てよ」といたずらっぽく笑ってみせた渡ちゃんだったが、開店当初の不慣れな厨房で僕はちょっと困ったような顔をしていたのだろう。カウンターの横に立って笑っている渡ちゃんは「早くあっためて食え!」と促してるようなので僕は仕方なく暖めて食べてみた。それはキーマカレー風の挽肉がたっぷり入った、かなりいけるカレーだった。「うん、おいしいよ、渡ちゃん」と言うと渡ちゃんは「そうだろ!」と嬉しそうにしてスキップしながら帰って行ったのだ。(おおげさだけど)

 カレー屋に自分の作ったカレーを持ってきて店主に食べさせ、何も注文しないで嬉しそうに帰る。これが渡ちゃんと「まめ蔵」の初めての出会いだったのだ。それからというもの渡ちゃんは何度となく「まめ蔵」にやって来た。とくに渡ちゃんの息子さんの漣君がまめ蔵でアルバイトをしていた5,6年の間は頻繁に顔を出してくれたものだ。いつも人なつっこい笑顔を浮かべてふらっと入ってきては冗談を散りばめながら白ワインを1,2杯ひっかけてさっと帰る。もちろんそれから彼はいせやで本格的に飲むわけなのだが。考えてみれば、渡ちゃんがカレー屋まめ蔵でカレーを食べたことは25年後のたった一回の例外をのぞいて一度もなかったのではないかと思う。まったくおかしな常連客だったのだ。

 その一回の例外というのは、3年ほど前の1月の寒い頃、どうしても断り切れずに受けてしまったカレー特集のテレビ取材の時だった。吉祥寺のカレー屋といえば「まめ蔵」、吉祥寺といえばフォークの町、フォークといえば高田渡というわけで、なんとかまめ蔵でカレーを食べる高田渡のシーンを撮ってみたいというディレクターの懇願にまけて、僕はしぶしぶ渡ちゃんに電話をしたのだった。渡ちゃんはまめ蔵で一度もカレーを食べたことがないのだし、それより店の宣伝みたいなことに渡ちゃんを引っ張り出すなんてできないなあ・・・と僕はかなり消極的だったのだが、意外にも渡ちゃんは二つ返事で引き受けてくれたのだった。

 まめ蔵で長い間バイトをしていた漣君のことや漣君とKuuKuuで働いていたマッキィが出会って結婚し、渡ちゃんにとってはお孫さんになる月歩や真帆が生まれたってことなんかもあって、引き受けてくれたのかななどと後から僕は考えたりもしたのだが、そんなことよりただ、「まめ蔵の宣伝になるんならいいよ!」って言ってくれた渡ちゃんの言葉が嬉しかった。

 撮影当日はすごく寒い日で、渡ちゃんは南米のインディオがかぶるような帽子をかぶってくわえタバコでやって来た。それからたった2分くらいの放映時間のために2時間くらいをかけて撮影が行われた。ディレクターの紋切り型の質問をことごとく外して意外な方向から答える渡ちゃんはさすがだったが、いざカレーを食べるシーンになると「ここのカレーは昔から変わらない味がいいんだよね、うん、うまいよ・・・・」などと話してくれたのだった。

 僕はちょっと驚いてしまったが、なんだか無性に嬉しかったのだ。「昔から変わらない味」ていうのはたしかにそうなんだけど、渡ちゃんは僕がいない時に一度くらいは食べたことがあったのかなあ、でも、あえてそのことを確かめることはしなかった

 撮影が終わって、一緒にいつもの白ワインを飲みながら「ありがとう」を言うと渡ちゃんは「あんなんでよかったかな、あれでまめ蔵の宣伝になるならそれでいいんだよ」と言って、じゃあまた!と店を出て行ったのだった。

 なつかしい高田渡と僕のカレー屋「まめ蔵」のささやかなエピソードでありました。

雑記帳TOPへ戻る
 
 
© Minami KuuKuu.